「シンセの演出家 冨田勲さんの音のパレットをのぞく」 第3回 (1982年)

「シンセの演出家 冨田勲さんの音のパレットをのぞく」 第3回

   <<新しい構想で生まれ変わる『惑星』『大峡谷』>>
『惑星』の大きなポイントは、
『火星』から『海王星』までのアルバム全体が
一つの物語となっていることである。
(オリジナルでは個々の曲が独立している)。
冒頭は、冨田さん自身のアイディアによる、
宇宙への旅立ち。
生のオルゴールのメロディー(譜例3)が流れ、
例のパ行による秒読みが「パープー、パープー」と始まる。

そして噴射音。
思わず唸らされるこの部分は、制作にとても苦心したようである。
例えば、雑音混じりの「パープー」の声は、
シンセサイザーで作った音をテープに録り、
富士山の五合目まで登って
トランシーバー(安物ほど効果的らしい)で空中に発信し、
伊豆スカイラインで車を走らせながらキャッチして作ったという凝りようである。
「旅立ち」の部分から『火星』への導入は、とても自然である。
「音のパレット」シンセサイザーの可能性を最大に発揮して作られた
「火星」「大宇宙」「ロケット」のイメージが
音楽の上でクロスオーバーして、ドラマティックだ。
シンセサイザーの音は、宇宙や空間を表現するのに打ってつけで、
そのことも、新『惑星』を成功させた要因であろう。
『火星』と『金星』は、ロケットのノイズなどの音で有機的に結びつけられている。
『金星』は、打って変わって、
オーロラの揺れているのを連想させるような、きらきらした音色で奏でられていて、
シンセサイザーならではの「天上の音楽」を聴かせてくれる。
ロケットは、その後、
ブラックホールに引きずり込まれるかのような危険を冒しながらも、
無事軌道を取り戻し、宇宙の彼方へと消えてゆく。
ここに再現したオルゴールの音を、萩昌弘氏は、
「エターナル・リターン(永劫回帰)の音化であると同時に、
アドベンチャラーへの、作者の讃歌にして鎮魂歌なのでもある」と述べているが、
冒頭と終結に現れる澄んだ音色は、
『惑星』という作品全体を引き締め、見事な統一感を出している。
木星』の一節である、懐かしさに満ちたこのメロディーを聴くと、
ふと、過去をふりかえらずにはいられない。
次に『大峡谷』。
私自身の、いちばんのお気に入りは『山道を行く』なのであるが、
ここで特筆すべきは、『赤いさばく』である。
「宇宙路線」で知られていた冨田さんのイメージを一変してしまうような
エキゾチックな『赤いさばく』は、
グローフェからも、以前の冨田さんからも独立した
新しい世界である。
この曲の成功は、何と言っても、音色の絶妙な選択に依るが、
彼自身のアイディアである、タムタムの効果的な使用にも依ると思う。
まず、冨田さんは、次の『山道を行く』のメロディーを持ってきた(譜例4)。

ゆったりとハーモニカのような音色で奏でられたメロディーは、
山々にこだまして、早朝のさわやかさがある。
ふいに、揺れ動くような砂混じりの風が起こり、
場面は、見知らぬ地へと転換する。
エキゾチックなタムタムの音が聞こえてくるが、暑さのために、
くらくらとした頭の中に遠く近く、夢のように響く。
ぼうっとした雰囲気の中から、メロディーが浮かび上がる(譜例5)。

原曲ではヴァイオリンで奏され、全体の雰囲気に溶け込む感じだが、
冨田さんの曲では、異国的な音色でくっきりと印象的で、
砂煙の中から岩肌が浮かびあがる景色を感じさせる。
「赤い」色が見えるようだ。
ビブラフォンのような音が頭上で響く(譜例6 原曲はピアノ)。

夢を見ている気分が一層強くなる。
誘いかけるような女性コーラスは熱く揺れる蜃気楼。
機械音を巧みに使った、乾燥した空気のうねり。
全ての音色が人声となり、幻想的な透き通ったコーラスの中で、
魂が空中をさまよい、空へ昇ってゆく。
と、エキゾチックなメロディーがくっきりと再現し、燃えるように赤い、
灼熱した砂漠の世界が戻ってくる。
再びうねり、響いていたタムタムの音が、
急に現実的な、余韻の短い音に変わり、
夢から醒めたように曲が閉じる。
タムタムを効果的に使って、彼は曲を再構成し、ドラマを与えた。
彼の作品全てにドラマがあるわけではないが、
音楽を全体から捉えてゆくことのできることが、
単なるアレンジャーに留まらない彼の才能の秘密ではないだろうか。
彼自身の「構想」があってはじめて、彼自身の「音色」も生きてくる。
確かな構想のもとで、必然的な音色は、自然に浮かんでくるのである。

   <<タイトルのイメージをふくらませて>>
冨田さんは、自分の世界を創る上で、オリジナルに縛られる必要はないと思う。
原曲の流れ、音色などに忠実であることが結構多いのだが、
もっと自由にイマジネーションを働かせて曲創りをしてもよいのではないか。
ただ、タイトルのイメージには忠実であってほしい。
『惑星』では、惑星の世界を展開してほしいし、『月の光』でも同様である。
アラベスク』が私の気持ちにしっくり来なかったのは、
アラベスク」は、アラビアで生まれた、とこしえに続く美しい唐草模様を
音楽に表現したものなので、
その模様のイメージをどこまでも紡いでいってほしかったからである。
タイトルのイメージに添うことは、
結局、原曲を裏切らないことにつながるのではなかろうか。
オリジナルの作品と、冨田さんによる作品が、
タイトルを中心にして結ばれている―両者はこのように共存している。
冨田さんが標題音楽を好んで取り上げるのも、
タイトルが曲のイメージを明瞭にしていて、
彼は、オリジナルを尊重しながらも、
それからは全く独立した自分の世界を
より自由に創り上げることができるからなのではないだろうか。

   <<プレイヤー冨田さんへの期待>>
冨田さんには、秋にブルックナー・フェスティバルに参加し、
ドナウ川の両岸に、スピーカーを配置し、
生演奏をする計画があるそうだ。
シンセサイザーが直接私たちに語りかけてくるなら、
シンセサイザーにまつわる「機械」のイメージは取り払われ、
もっと生き生きしたもの―楽器に見えてくるかもしれない。
レコードがどんなに優れていても、演奏者と聴衆が同じ場にいて、
同じ時を共有し、同じ音楽を通じて呼吸をし、
直接的に心を通い合わせる生演奏には、
やはりかなわないであろう。
もしかすると、私にとって彼の音楽が、
「超大型スペクタクル音楽」以上のものになるかもしれない。
しかし、現在の段階で、レコードで実現されるような世界が、
そのまま再現され得るのか。
大規模な機械を用いた、細かい作業の多いレコード作りのプロセスと、
生演奏のプロセスとは、全く異なるように思える。
彼は、今のところ、演奏活動ではなく、レコード制作を最終目標としている。
多重録音による緻密なプロセスで、より完璧さを目指している。
が、これらのレコードは、やはり「記録」である。
プレイヤーが、聴衆の前に、
自己のすべてを一瞬一瞬出しきっていった結果現れた、
たった一度限りの音楽なのではない。
誰の影響も受けずに、スタジオにひとり閉じこもった
アレンジャーによって作られたレコード(=記録)なのだ。
練習の時と、ステージに立った時とでは、
プレイヤーの心理状態は変わってくる。
生演奏での音楽は、いわば、
プレイヤーと聴衆両方によって作られるものだ。
しかし、冨田さんの場合は、できあがった音楽を聴衆に与えるという、
一方通行の図式となってしまう。
もし、冨田さんの音楽のどこかに冷めたものを感じるならば―
これが、その理由かもしれない。
二年半ぶりの新作『大峡谷』をひっ提げてステージに現れる
冨田さんの姿を見ることはできないであろうか。
プレイヤーとしての彼、そして彼の楽器たちと共に熱い時を過ごし、
生(なま)の感動を得ることのできる日を、
私は心から待っているのである。