「朗読」に初挑戦

八王子のNHK文化センターで行われた
近代詩を朗読する講座に参加しました。
加賀美幸子さんと音読する愛の詩集
〜藤村、白秋、光太郎〜」。


加賀美さんはまず最初に、このように語りました。
「詩とは、目と心で読んで、声に出して味わうもの。
 詩は詩人のものであり、また自分のものでもあります。
 それが詩ではないでしょうか。
 決まった読み方はありません。
 ご自分がどう読むか、です」。


配布されたプリントには、30篇を越す詩の数々。
さあ、私はどのように読もうかしら。
加賀美さんの机の上には、沢山の詩集。
「何度も読んだから、もうぼろぼろになってしまって・・・」。
一冊一冊手に取って、ほほえみながらページを繰っていきます。
ひとつひとつの詩と、当時のできごとや思いが、
きっと深く結びついているのでしょう。
高校時代には文芸部に所属し、自ら詩を書くほか、
雑誌も作っていたとのこと。
十代の頃の加賀美さんは、どれほど伸びやかに、
表現、創作をしていたことでしょう。


「どうしても、藤村から始めないといけないのです」。
朗読は藤村の「初恋」から始まりました。
「”自然に読む”とは、自分らしく読むということです。
 皆で声を合わせて読んでも、ひとりひとり別々の心で。
 私とも違うし、皆とも違う。
 自分の詩なのですから、人と違ってよいのです。
 人と違う方がよいのです」。


このブログで、6月19日にご紹介した「10周年記念公演 朗読の日」。
百人一首を選び、現代訳をし、朗読の指導を行った加賀美さんは、
「ひとりひとりの味」が朗読では大切、と教えてくれました。


「作者の心と読み手の心の、両方を出すのです。
 いにしえを振り返るのではなく、今をどう読み取るか。
 どう自分が読んで、どうとらえ、
 どう表現するのか。
 自分の心、自分の言葉、自分のやり方で読みます。
 ただし、ひとりよがりではなく、
 人に届ける気持ちで・・・」。


「自分の心、自分の言葉、自分のやり方で読む」というお話を、
「朗読の日」に初めて伺い、とても感銘を受けましたが、
今回の朗読の講座でも、これを最初に言われたことで、
私は、これは本当に大切なこと、本質的なことなのだ、と
深く理解しました。
加賀美さんのような専門家だからこそ、
自分の流儀や解釈が許されるということでなく、
講座に参加した一般の人々にも、それはとても大切なことなのです。


「解釈は自由なのです。
 何のための詩ですか?
 読んでほしいから発表するのです。
 そうでなければ、自分の中に留めておけばよいのですから」。
私は詩を解釈して、それを朗読に反映させるまでに至らないのですが、
自分で味わい、考えて、朗読すればいいのだというお話に、
とてもすばらしいものを感じました。


クラシック音楽の世界で、一部の指導者は自分の流儀や解釈を辿るよう、
生徒に求めます。
また、生徒の親の側が指導者に対し、模範演奏を求めることも、しばしばあります。
確かに模倣をする方が、ある意味、早く上達するという面もあるでしょう。
けれども、それではどの人も似たような演奏になってしまうし、
〜教授とそっくりの演奏、と評価を下げてしまう演奏家がいるのも事実です。


たとえ初心者であっても、自分なりの読み方、解釈というものを大切に・・・。

このことが胸の中に刻まれた時、私は、
自分が朗読をすることで得られる大きな「希望」を、
はっきりと感じました。
もちろん、すばらしい作品を自分の声で表現する楽しさ、
人に語り、聞いていただく喜び、
日本語の美しさを味わうこと、
朗読による文学や歴史などの世界の広がり、などなど、
朗読で得られるであろうたくさんのことを、以前から予感していました。
が、この時わかったのは、この場というものが、まず、
私にとって心地よい「居場所」であるということです。
表現や創作やクリエイティブな事柄について、本質的なことを、
高いレベルで考えたり、語り合ったりできる場。
自分らしさを発揮できる場。
自分の生き方について、模索していかれる場。


私は朗読を通じて、広く深い未知の世界の扉を開くのです。